ちひろこらむの最近のブログ記事

話せる場所


「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」ヘブル10:24-25

大震災から1ヵ月半が経過しました。まだ被害の実態の分かっていない地域があったり、避難所での生活が続いている地域があったりと、被災地での現状はいまだ厳しいものがあるという様子をニュースなどを通して聞いています。福島第一原発のすぐ近くにある教会は、地震・津波・原発の三重の被害から教会全体で非難を余儀なくされ、山形へ移動、4月からは東京の地で教会の家族による避難共同生活が始まったそうです。牧師の報告が教会ホームページに掲載されています。ぜひお読みください。

4月半ば、JCFNオフィスのあるアーバインから北西に車で2時間半程のところにあるサンタバーバラという町を訪れました。ロサンゼルス内では学生たちが教会を越えてミニストリーに関わる機会がありますが、その学生を中心に総勢11名がサンタバーバラにある日本人教会を訪ね、ノンクリスチャン学生たちへの伝道(関係作り)を目的とした隔週の集まりに参加しました。食事、自己紹介、ゲーム、賛美に続いて、スモールグループでの分かち合いの時がもたれました。その分かち合いのトピックの中心は、「震災について思うこと」でした。出身地が被災地の学生もいましたが、そうでなかったとしても、皆、自分の国・日本から離れたところで震災を体験し、改めて、震災後、そして今の心境を口に表す時間を持ちました。福島出身の学生が伝えてくれた一つの疑問がありました。「今は復興を必要として色々考えるけれど、いつか必要が満たされた時に、このときのことを忘れていってしまうのではないか・・・。」そんな疑問すら思ったり、口にしたりしていいのか分からずにいて、周りの友達にも話せないでいたということでした。皆、震災を前にして色々な思いの中にいます。しかし、それを話す場所がないでいるのだと、クリスチャンではない学生たちと接する中で知りました。クリスチャンの私たちにできることは「話を聞くこと」だと実感しました。いまこそ、それぞれに与えられた「場所」に留まり、聞くことのできるものでありたいと思います。日本の地でも、また、日本から離れているからこそ、聞いてもらうことの必要のある人たちがその場所を得られるように、そして、クリスチャンが「話せる場所」になっていけるように、ぜひ、一緒にお祈りください。

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津波のあとで

3月11日の東北でおきた地震・津波・原発事故から、何をどのように、自分の頭の中をまとめていったらいいのかが分からない日々が続いていましたが、私にできること、私に任されていることを忠実になしていこうと思わされている今日この頃です。

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「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」2歴代7:14


アメリカ時間の3月11日の朝、日本で大地震が起きたことを聞きました。最初、東京で大地震が起きたと聞き、一瞬蒼白になりました。そして、テレビをつけて見ると、東北を震源地に地震が起き、その数分後に大きな津波が沿岸地域を襲った様子が流されていました。私がニュースを知った時点で、すでに地震発生後から9時間が経過していたので、アメリカのニュースで流されている映像も、インターネットで流されている日本のニュースの映像も、すべてが信じられないような光景でした。急いで日本に電話し安否と状況を聞きましたが、これだけ日本との距離が遠いと思ったことはありませんでした。「日本のために何かしたい。」アメリカにいる日本人たちが協力し合っている場面を目の当たりにしています。こちらでクリスチャンになった学生の中に、津波の被害がひどかった地域出身の人がいます。日本国内間では通じない電話が、なぜかアメリカを介することで連絡を取ることができ、家族間のコミュニケーションの仲介として待機していたと聞きました。遠いようで、近くに日本を感じながら、毎週日曜日の夜に日本のために祈る時を持ち始めました。この地震・津波・原発の影響を経て、JCFNミニストリーに関しても、何を止め、続け、始めていくべきかを祈っているところです。

このような人には到底コントロールすることができない自体に遭遇する時に、「どうして、神様?」と祈らされます。震災後、2004年にスリランカを襲った大津波のあとに書いたアジス・フェルナンド師の「津波のあとで」を読む中で祈るべきことがらを教えられました。


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(以下「津波のあとで」より引用)

なぜこんなひどいことが起こるのか、と神に問うことは、非常に聖書的です。聖書は私たちに、この疑問と真っ向から取り組むように励ましています。ヨブやエレミヤ、詩篇の筆者たちがそのよい例でしょう。ヨブはなぜこんな事が自分の身に起こっているのかを理解するまで、長い間苦しみました。たいていの場合、神の民はこのような疑問との格闘の後に、こう断言します。神は主権をもって何が起こっているかをご存知なので、最も賢いことは、この神に信頼し続けることだと。これは詩篇の中によく見られます(詩篇73篇など)。

惨事の時に神の主権を信じるならば、苦しみの中にあっても私たちは希望を失いません。どのように悲惨な出来事であっても、神を愛する人々のためには、そこから益をもたらしてくださるという神の約束に信頼すべきです(ローマ8:28)。

このように神の主権を理解することは、すぐにはできないことかもしれません。時に私たちは、葛藤の中で神と格闘する必要があります。このような時には、祈りと神のみことばに聞くことが大切です(詩篇27)。災害からの復興や、被害を受けた人を助けるのに忙しい最中かもしれませんが、神と神のみことばに接する時間を見つける必要があります。どんなに難しい状況であっても、神の民がともに集まって礼拝を守らなければならない理由は、ここにあります。一緒に礼拝する時、私たちは永遠の霊的真理に目を向け、神の主権を思うことができます。霊的真理に触れることは、絶望に陥ることなく、私たちを助けてくださる神に信頼する力を与えてくれます。神とそのみことばによって慰められ、力が与えられ、それによって私たちは苦しんでいる他の人たちを助けることができるようになります。

本物を見極める


「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」Ⅰヨハネ3:7


先日、カリフォルニアでクリスチャンになった大学生が、卒業を機に日本に本帰国することになりました。帰国前、アパートを引き上げてから住む場所がないということで、1週間程、私の住むアパートの居間に住む事になりました。JCFNでは帰国前準備のために「帰国者ワークブック」というものを作成、配布しているのですが、今回、帰国を控えた彼女と全4回の学びの時を持つことができました。交わりと学びの機会が得られ、神様がどのように彼女に出会い、クリスチャンになることを導かれたのを聞き、神様をあがめました。学びの中で一番印象的だったのが、日本に帰国することを考えるにあたって、日本ではクリスチャンとしてではない生活しか送ったことがなかったためにもっていた「当たり前」の多くが、神様から来ていないことであり、神様の喜ばれないことであるということを気づいていく過程でした。もちろん、彼女がクリスチャンになってから、それまでの生活が変えられていきました。しかし、アメリカでは体験していなかった、日本ならではの神様からかけ離れている事柄に目を留めてきてはいなかったようです。日本を取り巻く「スピリチュアリティブーム」であったり、どんなところでも目にする「占い」、神様の真理から程遠いものが日夜発信されてます。どこか、「日本だから当たり前」としてしまっている事柄が、神様の前に立ったときに、どんなに神様を悲しませてしまっているのかを、彼女と話しながら、一緒に確認しました。そして、悔い改め、これからの歩みを守っていただけるように祈りました。本物の中を歩んで行く私たちの歩みの中に、必ず偽物がその歩みを邪魔しようとしています。帰国者と接しながら、本物を見極めていくことを伝えていくことの大切さを改めて思いました。どうか、帰国者のひとりひとりが本物を見極めて日本での信仰生活を歩んできるようにお祈りください。

 

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをして下さいます。」第一テサロ二ケ5:23-24
 

日本での2ヶ月の滞在を終え、10月28日に無事にアメリカのほうに戻りました。早速、アメリカに戻って最初の週末は、今年末のイクイッパーカンファレンス(以下、ec)の実行委員会。ワシントン州、オレゴン州、ジョージア州からも実行委員たちを迎えて、朝9時から夜9時までぶっ続けの(もちろんご飯はおいしくいただきました。)顔を合わせての会議をもちました。今回のecのテーマとして、聖化(キリストのように変えられていくこと)が取り上げられています。特に、感覚的や感情的に信仰を捉えやすい年代を対象者とするカンファレンスで、じっくり、神様の聖さとかけ離れている私たちが、神様との関係の中でキリストのご聖質を反映していくこと体験できるプログラム作りをと、実行委員会で話し合いを深めることができました。実行委員のほとんどは、ボランティアとして、日頃の仕事や学業の合間に準備を進めてくれています。これから当日に向けて、最後の追い込みの準備が進められていく中、準備が守られるように、また、修養会当日のためにお祈りください。11月3週目現在、230人の方が申し込んでいます。神様が送られようとしている人が誰一人漏れることなく参加できるように、そして、そのための経済的必要が満たされるようにお祈りください。今回私は、ファンドレイズ、帰国者セミナー、弟子訓練ワークショップのパネリスト、海外地域別集会、その他必要のあるところでのサポートという役割で関わっています。与えられている役割を全うすることができるように、ぜひお祈りください。詳細は、www.equipper.orgまで。

 

信頼


「それから、彼に次のような主のことばがあった。・・・それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。」Ⅰ列王記17:2、5a

進む先の定かでない、人の目には不安定に見える状況のとき、神様は私たちを神様の方に向けられることがあります。現在、JCFNは過渡期にあります。人事的な変動、また、北米本部は事務所の移転先を求めています。団体としても、また個人的にも、人の目には不安定に映る状況の中で、ある時期、悶々と考えてしまう日々を過ごしました。その折に、Ⅰ列王記17章のエリヤの話から、神様からの問いかけを受けました。神様はエリヤに数段階に渡って語られました。その語りかけは、人の目には先の見えない不確かなことばかりでした。たった1章の短い話ですが、その行間には、時間をかけた行動があり、人の想像をはるかに超えた神様の約束の成就がありました。神様とエリヤの対話の中にあったものは、エリヤの神様に対する信頼でした。エリヤが信頼して神様の言葉に従った時、必ず、全てのものが満ち足りました。その話を読んだ時に、「あなたは私のことを信頼していますか?」と問いかける神様の声が聞こえたような気がしました。先の確かでない時、悶々と考えてしまっている時、「私は神様を信頼しているだろうか?」と自分自身に問いかけることが必要であることを学びました。ぜひ、引き続き、私の神様への信頼の歩みが守られていくようにお祈りください。また、JCFNの人事、北米本部の移転先に確かな示しとそれに応答する従順さが与えられるようにお祈りください。6月はJCFN日米両主事が集まっての年次主事会(教会で言う総会のようなもの)が行われます。来年20周年を迎えるJCFNの歩みを計画していくに当たり、神様の御心を聞いていくことができるようにもお祈りください。

 

「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」Ⅰコリント12:12-13

 

4月のニュースレターに、私が日本滞在中に出会った「帰国者」(海外経験のあるクリスチャン)たちの話をいくつか書きました。日本で実際に帰国者に会って、改めて、帰国者を理解することと具体的な助けになっていくことの大切さを考えさせられました。このトピックについて大々的に取り上げていたのが、祈っていただいてたANRC10(オール・ネイションズ・リターニーズ・カンファレンス)でした。『One Body, Many Parts~一つのからだ、多くの部分』をテーマに掲げ、帰国者を励ますだけでなく、帰国者を送り出す人、受け入れる人が一つになって、神様の神の国の働きをなしていくことを共に考える時を持ちました。帰国者フォローアップのための参考資料として、実際の帰国者175名に応えてもらったアンケートからの声が発表されました。その中で印象的だったことは、多くの帰国者が帰国後に教会を決める決め手にしていることは、「居場所がある」と思える教会であるかどうかということ。ニュースレターにも「属している」と思うことの重要性や賜物を用いて奉仕できるということを語ってくれた帰国者の話しを書きましたが、もう一度、帰国者が「居場所」を見つけることができるように手伝っていきたいと思わせられました。今思い返せば、私が子どもの頃に教会に行き始め、行き続ける理由となったことは、教会が私にとっての「居場所」でした。同じように、「居場所探し」とも言える帰国者フォローアップをしていきたいです。同時に、どのようにしたら「居場所」と感じることができるのかという質問も浮かび上がっていきます。賜物を用いて奉仕ができる。友達がいる。弟子訓練がうけられる。などなど色々のことがあげられると思います。「居場所」とは何か?そして、居場所作り・探しとは?これからも考えつつ、体験しつつ、帰国者の働きをしていきたいです。

「和解の使節」

 

「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。」Ⅱコリント5:18b-20a

 

昨年末、JCFNのイクイッパーカンファレンスはお休みでした。同じ日程、JCFNの発祥の地である「アーバナ宣教大会」(ミズーリ州セントルイス)に参加し、日本人集会の取りまとめをしました。

アーバナ宣教大会は、3年に一度開かれる北米大学生と大学生に関わる人たちのためのカンファレンスで、2009年は1万7千人の学生が集まりました。5泊6日のカンファレンスで多くのことが語られ、経験しましたが、中でも最終日の夜の全体集会で聞いた証に圧倒されたのがハイライトでした。証をしてくれたのは、名古屋で神学校校長をしているマイケル・オーさんという韓国系アメリカ人の方でした。彼の祖父は日本が韓国を圧迫していた只中の人。父親には日本名が与えられ、日本製のものを持つことも毛嫌いするような日本嫌いでそのことを息子であるマイケルさんにも伝え続けていたそうです。親から言い聞かせられたことや、大学院時代に調査で日本が近隣国に戦時中にしてきたことを更に詳しく知る中で、日本に対する憎しみが自分のものとなりました。しかし、そのようなマイケルさんに対し、神様が聖書を通して語ったことは、「あなたもわたしの敵だったのではないか?わたしの子を十字架につけたのではないか?あなたはわたしの恵みに値することを何かしたのか?」ということでした。そして、いかに自分を正当化し周りを裁いていたのかということ、神様の前に自分の罪を横において周りを憎んでいたのかということを思わされたそうです。和解は神様の前に自分の罪を認めることから始まることを伝えてくれました。そして、彼はスタジアムに集まった1万7千人の前で、日本語で「愛する兄弟姉妹のみなさん。私を赦して下さい。」と伝えてくれました。そして、キリストが十字架で流された血潮によって、神様と私たち、私たちと周りの国・人々と和解することができるということを伝えてくれました。その証を聞く中で涙が流れてきました。謝るべき日本人の前に赦しを請う姿だけでなく、その背後に、土台にある神様の圧倒的な赦しの大きさにへりくだらされました。

和解の使節として呼ばれている福音を受け取った私たちが、その和解のメッセージを携えていきたいと思いを新たにされました。

 

(英語ですがメッセージを聞くことができます。)

 

「Availability」

 

「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」イザヤ6:8

先日、JCFNのオフィスにワシントン州に住んでいるアメリカ人女性から電話が入りました。「姉妹の義母は日本人で、癌のステージ4で日本人のチャプレンを探している。」ということでした。話を聞いてみると、電話をくれた方はクリスチャンの方で、姉妹さんのお義母さんは、おそらく、クリスチャンではないということ。どんなヘルプができるのかは分からないけど、とりあえず、日本人クリスチャンの方に訪ねてもらいたいと思って、インターネットで調べていたところ、私たちの団体を発見したということでした。姉妹の方に電話をしてみたところ、お義母さんは70歳で、つい数ヶ月前にご主人を癌で亡くし、悲しみから抜け出ていない状況で、今度は自分の病状も悪化し、今は、ケアの受けられる施設に入っているということでした。その施設は私のオフィスのそばで、私には何ができるのかわかりませんでしたが、訪ねてみることにしました。

施設の前で息子さんご夫婦と待ち合わせをし病室を訪ねました。病室に入って、息子さんが私のことを「教会の友達」と紹介してくれましたが、Uさんの最初の反応は首を横に振って、「バイバイ」とかすれた声で言うのみでした。何をしていいのかまったく分かりませんでしたが、とりあえず、あいさつと、何かできることがないか、など、日本語で世間話程度に話しかけてみました。反応はよくわからず、うまく会話を交わすことはできませんでした。しかし、一言二言の日本語の話しかけが刺激になったのか、これまでうまくできていなかった医師との意思疎通ができた様子でした。息子さん夫婦の希望は、続けて、家族のいないときでもいいから、Uさんを訪問してほしいということ。日本語で話しかけて、キリスト教について話したり、聖書を読んで聞かせたり、どんな日本食が好きなのかを聞いたり、一緒にいて手を握ったりということでした。こんな何気ないことも「日本語で」ということが息子さん夫婦にはすることのできないことなのだと思ったら、胸の詰まる思いがしました。施設を去る前に、もう一度ひとりでUさんのベッド脇に行って、彼女のために祈っていいか聞いてみることにしました。「Uさん。ちひろです。Uさんのこと、神様に今祈ってもいいですか?」そしたら、先ほどと打って変わって、今度は、首を大きく立てにふるUさん。「あぁ、神様だ。」「Uさんは私が誰だかわからなくても、神様と直接出会うんだ。」と思わされました。そして、一緒に祈りました。私が声に出して祈っている間、Uさんは首を立てに振り続けていました。まるで、「アーメン、アーメン」と祈りにあいづちをうっているようでした。最後に、「また、来てもいいですか?」と聞いたら、またうなづいてくださいました。

最初の訪問から2日後、施設を訪ねに行きました。しかし、Uさんに再び会うことはできませんでした。訪ねた日の早朝に亡くなったそうです。その後、息子さん宅にお邪魔をし、日本語翻訳のお手伝いさせてもらいました。そして、前回の病室での出来事を伝えると、目に涙を浮かべていました。

今回の経験を通して、いつでも神様の声かけに対して備えておくこと(Available)が必要であると思わされました。一見、自分には何もできないと思えることであったとしても、また、自分には関係のないことだと思ってしまう状況であったとしても、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と神様への呼びかけに応える時、神様は喜んでくださるということ、またその喜びを一緒に味あわせていただけるということを学びました。ぜひ、いつも、神様の前に「Available」でいることができるようにお祈りください。

「刈り取り」

 

「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」ローマ10:13-14

 

収穫の秋がやってきます。聖書には収穫の時がいつだと書いてあるでしょうか。イエス様はこのように言っています。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)「秋になるまで待とう!」というのでなく、今がまさしく収穫の時なのです。

 

まさしく、その「収穫の時」について教えられた出来事がありました。これまで数ヶ月間サーフィンスクールやゴスペルクワイアで仲良くなったTちゃんが、つい先日、イエス様を救い主として受け入れクリスチャンになりました。彼女と「お茶をしよう!」と約束して、ある金曜日のゴスペル練習後、我が家で一緒に麦茶を飲みながらゆっくり話すことになりました。少しの雑談の後、すぐに彼女から本題へ。そして彼女が言う事に、「私はクリスチャンだと思う。」・・・だそう。そして続けて、「私の神様はイエスキリストなの。」と言うTちゃん。私ははっきり言って驚いてしまいました。私が福音を伝えたのは、前に、立ち話で話した「どうやってクリスチャンになるのか」を含め、それが2回目でした。それから、聖書を開き、天地創造、罪がどのように入ったのか、私たちは救われなくてはいけない存在、イエス様の十字架の死と復活・・・と福音を伝えました。そして、その後にTちゃんの口からでてきたことは、「パッションの映画で見た十字架を思い出した。私はなんてひどいことをしてしまったんだろう・・・。」またまた唖然。その晩、「罪」について明確になったTちゃん。共に祈り、イエス様を救い主として受け入れる決心をしました。

 

これまでに、こんなに福音がすんなり伝わったことはありませんでした。驚くと共に、神様がすでにTちゃんの心を耕してくださり、蒔かれた種を成長させてくださったのが分かりました。日本で数年間ゴスペルに関わり、アメリカでもまたゴスペルを歌う機会があり、私が一緒に麦茶を飲んだ時にはすでに収穫の時だったのです。福音をきちんと伝え、決心できるように語っていくことは、すでに救われた者の責任であることを改めて思わされました。引き続き、大胆に福音の種を蒔き続け、刈り取りに関わらせていけるようにお祈りください。また、これからのTちゃんのイエス様の弟子としての歩みのためにお祈りください。

「Holy Discontent~聖なるモヤモヤ」

 

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」ピリピ2:13

 

8月のニュースレターに、WITリーダーシップキャンプで再確認した使命について書きました。そのことについてもう少し詳しく、ここでは書きたいと思います。「この傷ついた世界にあって、あなたがそれを見るとき、触れるとき、近づくときに、『我慢できない!』と感じさせるもの」のことを「聖なるモヤモヤ」、「Holy Discontent」と言います。聖書の例で言うならば、モーセがエジプトで奴隷として苦しんでいるイスラエル人を見たときにいても立ってもいられない思いになったあの感覚です。また、ポパイが愛するオリーブがつらい思いをしている時に、「I can't stand no more」と言った感覚です。

 

思い起こせば中学生の時に、私も教会生活の中でこの感覚を得、傷ついた人に関わるべくカウンセリングを学ぶようになりました。神様は私たちのそのままを愛し、私たちと関係を持つことを喜びとしています。また、それぞれに賜物、能力、技術などを与えて、神様の働きに召し出してくださっています。しかし、その真理を見えなくさせてしまうことがあります。例えば、子どもの頃の親子関係の結果、天のお父さんとの親子関係がギクシャクしてしまう・・・とか、神様が自分のことをどう思っているのかではなく、自分の基準で自分のことを評価し、自己卑下したり、自信をなくしてしまったり、本当に神様が与えてくださっている賜物などを正しい形で用いることができていない・・・とかがあるでしょう。そのように、神様が本当に意図しているところから離れてしまっている人たちに対して、「あぁ。神様はそんな風に思ってないのに!!」という「モヤモヤ」が生じます。その「聖なるモヤモヤ」に応答して、神様が私に与えてくださったものを用いて日々の人間関係を築いていきたいと思っています。

 

みなさんはどうですか?いっても立ってもいられない思いや、ある状況を見て「私がやらなくて誰がやるんだ!?」という感覚になったことがあるでしょうか?そんな時、神様があなたのことを突っついているのかもしれません。とうぞ、神様の呼びかけに耳を傾けてみてください。

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