2011年3月アーカイブ

津波のあとで

3月11日の東北でおきた地震・津波・原発事故から、何をどのように、自分の頭の中をまとめていったらいいのかが分からない日々が続いていましたが、私にできること、私に任されていることを忠実になしていこうと思わされている今日この頃です。

======

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」2歴代7:14


アメリカ時間の3月11日の朝、日本で大地震が起きたことを聞きました。最初、東京で大地震が起きたと聞き、一瞬蒼白になりました。そして、テレビをつけて見ると、東北を震源地に地震が起き、その数分後に大きな津波が沿岸地域を襲った様子が流されていました。私がニュースを知った時点で、すでに地震発生後から9時間が経過していたので、アメリカのニュースで流されている映像も、インターネットで流されている日本のニュースの映像も、すべてが信じられないような光景でした。急いで日本に電話し安否と状況を聞きましたが、これだけ日本との距離が遠いと思ったことはありませんでした。「日本のために何かしたい。」アメリカにいる日本人たちが協力し合っている場面を目の当たりにしています。こちらでクリスチャンになった学生の中に、津波の被害がひどかった地域出身の人がいます。日本国内間では通じない電話が、なぜかアメリカを介することで連絡を取ることができ、家族間のコミュニケーションの仲介として待機していたと聞きました。遠いようで、近くに日本を感じながら、毎週日曜日の夜に日本のために祈る時を持ち始めました。この地震・津波・原発の影響を経て、JCFNミニストリーに関しても、何を止め、続け、始めていくべきかを祈っているところです。

このような人には到底コントロールすることができない自体に遭遇する時に、「どうして、神様?」と祈らされます。震災後、2004年にスリランカを襲った大津波のあとに書いたアジス・フェルナンド師の「津波のあとで」を読む中で祈るべきことがらを教えられました。


======

(以下「津波のあとで」より引用)

なぜこんなひどいことが起こるのか、と神に問うことは、非常に聖書的です。聖書は私たちに、この疑問と真っ向から取り組むように励ましています。ヨブやエレミヤ、詩篇の筆者たちがそのよい例でしょう。ヨブはなぜこんな事が自分の身に起こっているのかを理解するまで、長い間苦しみました。たいていの場合、神の民はこのような疑問との格闘の後に、こう断言します。神は主権をもって何が起こっているかをご存知なので、最も賢いことは、この神に信頼し続けることだと。これは詩篇の中によく見られます(詩篇73篇など)。

惨事の時に神の主権を信じるならば、苦しみの中にあっても私たちは希望を失いません。どのように悲惨な出来事であっても、神を愛する人々のためには、そこから益をもたらしてくださるという神の約束に信頼すべきです(ローマ8:28)。

このように神の主権を理解することは、すぐにはできないことかもしれません。時に私たちは、葛藤の中で神と格闘する必要があります。このような時には、祈りと神のみことばに聞くことが大切です(詩篇27)。災害からの復興や、被害を受けた人を助けるのに忙しい最中かもしれませんが、神と神のみことばに接する時間を見つける必要があります。どんなに難しい状況であっても、神の民がともに集まって礼拝を守らなければならない理由は、ここにあります。一緒に礼拝する時、私たちは永遠の霊的真理に目を向け、神の主権を思うことができます。霊的真理に触れることは、絶望に陥ることなく、私たちを助けてくださる神に信頼する力を与えてくれます。神とそのみことばによって慰められ、力が与えられ、それによって私たちは苦しんでいる他の人たちを助けることができるようになります。

灰の水曜日 Ash Wednesday

今日は、灰の水曜日(Ash Wednesday)。
イースター(キリストの復活の日)を迎える準備期間である受難節(Lent)の第1日目です。

これから日曜日(日曜日は復活を祝う日なので・・・)を除いた40日間、断食や思い巡らし、祈りを通してイースターに備えていくというのが、教会が始まった頃からの習慣として残っています。

(ちょうどオフィスにいたので・・・、)JCFNオフィスのあるNewsong Community ChurchのAsh Wednesday礼拝に参加してきました。

礼拝は3つの構成になっていました。


【自分に思いを留める】

神様から自分を遠ざけてしまっていることがらや罪に目を留めるときを持ちました。
思い巡らしの中で、小さい紙にそのことがらや罪を書き出しました。


【神様に目を留める】

神様の約束は、罪を認め、言い表し、神様に差し出す時に、その罪を洗い流してくださるということ。
その象徴として、罪を書き出した紙を水の入ったバケツの中に入れ、洗いました。
すると、なんと、一瞬でその紙は解けてなくなりました。
神様の方を向くことから私を遠ざけていることがらが書き締めつくされた紙が一瞬で消えてなくなってしまったのです。
文字通り洗い流されました。
本当に一瞬でした。
あまりの一瞬の出来事に、しばらく呆然としてしまいました。
と同時に、神様のなさることをすごさを目の当たりにしました。
キリストの十字架での死と復活の持つ力のすごさを体験した気がしました。
そのすごさを私のために与えてくれました。
そう思ったら、涙が溢れ出してきました。


【赦す】

私たちを赦してくださった神様は、その赦しを周りの人と分かち合うように促しておられます。
神様が私を赦してくださったように、私も周りの人を赦すのです。赦すことができるのです。



礼拝に出席することができて、私に必要な思い巡らしの時を持つことができました。
気づかされたことは、私は色々と夢を見てしまうということ。
その夢を見たり、想像したり、ときに、妄想してしまったりすることが、神様の御心を思うことから私を遠ざけてしまっているということに気づきました。
そして、そのことがらを悔い改めて、神様のほうを見つめ、求めていくことを神様は願われているということを知らされました。

このレントの40日間、自分勝手な夢ではなく、神様に目を留め、御心を追い求めていきたいと思わせられました。


神様、私の心をあなたの御心と同じにしてください・・・。




礼拝で読まれた聖書箇所で思いに残った箇所をいくつか・・・。


わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。今や、わたしはこの所でささげられる祈りに目を留め、耳を傾けよう。
2歴代7:14-15


神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。
ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。
御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。
私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。
たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
詩篇51:1-17

本物を見極める


「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」Ⅰヨハネ3:7


先日、カリフォルニアでクリスチャンになった大学生が、卒業を機に日本に本帰国することになりました。帰国前、アパートを引き上げてから住む場所がないということで、1週間程、私の住むアパートの居間に住む事になりました。JCFNでは帰国前準備のために「帰国者ワークブック」というものを作成、配布しているのですが、今回、帰国を控えた彼女と全4回の学びの時を持つことができました。交わりと学びの機会が得られ、神様がどのように彼女に出会い、クリスチャンになることを導かれたのを聞き、神様をあがめました。学びの中で一番印象的だったのが、日本に帰国することを考えるにあたって、日本ではクリスチャンとしてではない生活しか送ったことがなかったためにもっていた「当たり前」の多くが、神様から来ていないことであり、神様の喜ばれないことであるということを気づいていく過程でした。もちろん、彼女がクリスチャンになってから、それまでの生活が変えられていきました。しかし、アメリカでは体験していなかった、日本ならではの神様からかけ離れている事柄に目を留めてきてはいなかったようです。日本を取り巻く「スピリチュアリティブーム」であったり、どんなところでも目にする「占い」、神様の真理から程遠いものが日夜発信されてます。どこか、「日本だから当たり前」としてしまっている事柄が、神様の前に立ったときに、どんなに神様を悲しませてしまっているのかを、彼女と話しながら、一緒に確認しました。そして、悔い改め、これからの歩みを守っていただけるように祈りました。本物の中を歩んで行く私たちの歩みの中に、必ず偽物がその歩みを邪魔しようとしています。帰国者と接しながら、本物を見極めていくことを伝えていくことの大切さを改めて思いました。どうか、帰国者のひとりひとりが本物を見極めて日本での信仰生活を歩んできるようにお祈りください。

現在、年に一度のJCFN日米合同主事会中。

今日、2日目を終えました。会議は全4日間。あと2日続きます。

 

JCFNのすべての働きは、帰国者(日本国外でクリスチャンになった人、日本でクリスチャンになったかが海外で信仰がさらに燃やされた人)が整えられたクリスチャンになることを目指しすことに通じています。

整えられたクリスチャンを表現することとして、「4つのC」を掲げています。

Calling 神さまの召しに聞き従う
Character キリストの似姿に変えられていく
Community キリストの体に属し建て上げる
Commission キリストの弟子を作ることのできる弟子となる

簡単に言うとこんな感じ。

 

この働き、そもそも、帰国者・・・特に日本人留学生(駐在や他の理由で日本国外に出る人もいますが・・・)がいるからこそ存在しているものです。

合同主事会が始まって、特に、この「留学生」たちの様子を調べてみる必要性が話題にあがりました。

日本国内でも、若者たち、学生たちの雰囲気が数年前から変わってきているように思います。

それと同じように、日本国外に・・・特に、北米に出てきている学生たちの留学のきっかけや目的が変わってきているのかもしれない・・・。

私たちの限られた、学生たちと接する機会を通して感じたことを主事間で分かち合いました。

実際、日本人留学生の数が減ってきていることを耳にします。

ただ、ビザの入手が以前よりも困難になったということだけではなく、留学することへの利点を見出さなかったり、新しいことへの冒険をしなかったり・・・?

海外研修を希望する社会人も減ってきたりとか??

 

私が留学した9年前の周りの留学生と現在の留学生との間でも、留学生のタイプが変わってきているのを感じるので、JCFNが始まった20年前の留学生と、今の留学生とでは、明らかに違いがあります。

その現実を目の当たりにして、今、私たちにまかされている働きがなんであるのかを今後考え続けていく必要があると思いました。

 

どこに日本人留学生がいて、どのように真理に対して思いを向けているのか・・・

どのようにミニストリーが地域で展開されているのか、JCFNは何ができるのか・・・

 

広い視野で振り返りとこれからを思いめぐらしていることが必要とされる新しい1年になることを感じました。

 

さてさて残りの会議にも乞うご期待。

 

このアーカイブについて

このページには、2011年3月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年2月です。

次のアーカイブは2011年4月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.2.13