2012年9月アーカイブ

「神の求める交わりとは」

10月7日修養会開会礼拝メッセージ 構築中:
「『主の名を呼ぶ者は、すべて不義からはなれよ。』・・・もし人が卑しい者を取り去って自分を清めるなら、・・・尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。(第2テモテ2:19~22)
そこであなたは若いときの情欲を避けなさい。そして、きよい心を持って主を呼び求める人々とともに、正義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。

概要:


教会の外の世界へ広がる有意義な交わりがなければ、明日の教会は存在しない。
聖書には個人的に完結する心の状態例えば欲が無くなるようなきよめ、内的な信仰または霊性の深まりついて、特別な関心はなく、神とともに神によって、外へと向かう、様々な人々との交わりの質を高めていくことに関心がある。「正義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。」主の名を呼び求めることにより、共にそのような交わりを追い求める者に変えられていくのであろう。

死者の中から引き上げられた平和の神が、その旨を行うためにすべての善業においてあなたたちを強め、イエス・キリストによって神に喜ばれることを私たちのうちで行われるようにと祈る。 ヘブル13:21

 

神は罪を知らなかったお方を私たちのために罪となされた。それは、私たちをその方において神の正義とするためである。 コリント5:21


「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ち込んだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは正しいことである」。
・・・これは預言者イザヤの行ったことばが、成就するためである、
「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に述べ伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はいない。彼が正義に勝ちを得させるときまで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
・・・わたし(他でもなくイエスのこと)の味方出ない者は、わたしに反対する者であり、わたしと共に集めない者は、散らす者である。(マタイ12:11-12, 17-21, 30)
人々の命のため正義の実現を追い求めることはイエスこそが牧者であることを認めることである。
エゼキエル書34章。教会のかしらはイエスキリストであり、イエスは教会の牧者であることをまず認め、イエスの体としてのわざを行う。

1. 神の思い。
神の民と呼ばれる人たち、新約聖書では(真にイエスを信じる)教会の人たちをも含む人たちがどのように生きることを神は望んでいるのか?

神の恵みによって正義と公正を行う:

まさに神の民の代表的存在アブラハムとその「子孫」(神の民を意味する)について:
「・・・地のすべての国々は、彼(アブラハム)によって祝福される。
わたし(神)が彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、
正義と公正を行わせるため、
主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」(創世記18:18-19)

「私は誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(新約でイエスが引用)
ところが・・・私を裏切った。
彼らは、私に向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っていると叫ぶが、
イスラエルは善を拒んだ。・・・彼らは王を立てた。だが、私によってではない。
彼らは首長を立てた。だが、私は知らなかった。
・・・あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。
今が、主を求めるときだ。ついに、主は来て、正義をあなた方に注がれる。
あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。
これはあなたが、自分の行いや、多くの勇士により頼んだからだ。
あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきの元であったからだ。
知恵あるものは誰か。その人はこれらのことを悟るがよい。
悟りあるものは誰か。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。
正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。(ホセア書6:6-7, 8:2-4, 10:12-13, 14:1-2,9)

「わたしは言った。聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。
あなたがたは公義を知っているはずではないか。
あなたがたは善を憎み、悪を愛し・・・
私は何を持って主の前に進み行き、いと高き神の前にひれ伏そうか。
全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきだろうか。
私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきだろうか。
主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主はあなたに何を求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって、
あなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ書3:1-2, 6:6-8)

「わたしの好む断食はこれではないか。
悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、虐げられた者たちを自由の身とし、
すべてのくびきを砕くことではないか。
飢えた者にはパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、
あなたの肉親の世話をすることではないか。
もし、あなたの中から、くびきを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら・・・
あなた方のうちのある者は・・・『破れを繕う者、市街を住めるように回復する者』と呼ばれよう。
まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。
わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。
彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。
彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。(イザヤ58:6-7, 61:8-9)(こうなれば教会も安泰だ!!

「主を求めて生きよ。・・・彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。
善を求めよ。悪を求めるな。・・・
わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。
あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。
たとい、あなたがたが、全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、
わたしはこれらを喜ばない。
あなたがたの超えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。
あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。
公義を川のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」(アモス5:6,14,21-24)

神を知ること=正義を追い求めること(ヨハネの福音書3:16-21)
しかし現状は:

神の存在の意味、神の救いの意味、聖書の意味を無視している。
しかも神を知っていながら、聖書や神の言葉を使いながら無視している。

「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、
あなたがたの唇は偽りを語り、舌は不正をつぶやく。
正しい訴えをする者はなく、真実を持って弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、
害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、
卵をつぶすと、毒蛇が飛び出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身を覆うことも出来ない。
彼らのわざは不義のわざ、我らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
それゆえ、公義はわたしたちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗闇の中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、不利な証言をするからです。
私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。
こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中に入ることも出来ない。そこで真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。
主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」(イザヤ59:3-15→ヨハネの福音書3:16-21)
「わたしの民はわたしに対する背信から、どうしても離れない。」(ホセア11:7)
「イエスは・・・言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「私はあわれみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:12-13, 36 正義、公義=虐げられない社会、羊の命を守る牧者がいるということ。エゼキエル34,37章, 第1ペテロ。ペテロ=羊を飼えと言われた=クリスチャンが正義のために召されたこと=偽りと虐げのない交わりの実現=羊を飼うこと)


「正義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかった方が、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、『犬は自分の吐いた物に戻る』とか、『豚は身を洗って、またどろの中にころがる』とかいう、ことわざどおりです。」(第2ペテロ2:21,22)































































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