人はパンのための奴隷ではない

「愛の名の故にどこまでのインチキがまかりとおるんだい?」(U2 「プライド」)

「パンさえ与えれば、人間はひれ伏すのだ。

なぜなら、パンより明白なものはないからな。」(ドストエフスキー 『カラマーゾフの兄弟』)

 

文豪ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描いたように聖書も、人間には「自由の重荷に耐えられず、自由と引き替えにパンを授けてくれる相手に対してむしろひれふすことを求める」、つまり人は「死」というものの奴隷なのであると断言します。そこに人間の罪深さや不誠実さ、弱さ、醜さがあります。死がある故に、世界は最初神がいのちをもたらしたときの姿とはかけ離れてしまったのです。この「死」という問題を最終的に解決し「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」世界を実現されるのはイエス・キリストなのだと聖書は告げています。また、もし、このイエスによる救いがなければ、「食おうじゃないか、飲もうじゃないか、どうせあしたは死ぬ身だ」というような悲観的でシニカルな影響を人々は受ける恐れがあるというのです。

 

教会にはイエスの救いによって当然あるべき姿を離れ去り、権力者に「正当性」を与え特権階級に都合の良いように人々を手なずけてきた歴史があります。キリスト教にも経済界にも、そうとうな欺瞞があるかもしれません。しかし、もし真の愛というものがあれば偽りの愛との差が歴然とすると思われるように、キリスト教については内なる欺瞞や間違いが明らかになればなるほど、イエスが救い主であることの真実味が増してくるのです。

 

丘の上に立てる十字架 苦しみのしるしよ

そこに君は人に代わり 血をながしたまいぬ

十字架を愛して われは生きまた死せん

十字架ぞさかえの 冠得る道なる (新生讃美歌230番)

 

神はその使者イエスを遣わし、人々を新しく造りかえる世界再出発の合図を示されました。それが聖書の預言の通り、イエスが十字架で死んだ三日目によみがえられたということです。聖書にはイエスが神の力により復活されたという様々な目撃証言が記録されています。十字架で死んでよみがえったイエスのようにイエスを信じる者はこの世界で神の助けによって人々のために苦しみながらも神の力で支えられて生きる道が定められています。

 

この世界では税金など人々の負担が増え、将来の不安も増します。巨大銀行や大企業が税の負担や法による監視と拘束を避けるための手段を講じている。そのことがひとつの大きな要因だといいます。[1] こうした中で人々が共に集い、祈って支え合う場が人には必要です。その場所が教会です。人は本来パンのための奴隷ではないのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神から出るひとつひとつの言葉による」と聖書に書いてあります。

 

「愛する者よ、あなたは悪をまねず、善をまねよ。善を行う者は神から出たのであり、悪を行う者は神を見たことがないのである。」聖書



[1] Nicholas Shaxson, Treasure Islands: Uncovering the Damage of Offshore Banking and Tax Havens (『宝島:オフショア金融とタックスヘイブンがもたらす損害を暴く』),

デモクラシー・ナウ「オフショア金融とタックスヘイブンはグローバル経済の心臓部」

http://democracynow.jp/video/20110415-1

 

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このページは、T. A.が2012年2月29日 22:39に書いたブログ記事です。

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